[history]
三宅清七(当時33歳)が味醂・焼酎・白酒製造業をはじめ、屋号を地名の鹿田河内にちなんで「河内屋」と称しました。清酒醸造に踏み切ったのは、明治35年(1902年)のことでした。初代三宅清兵衛の「女性は内助の功を称えられるばかりで、酬いられることが少ないのは気の毒である。せめて酒銘だけでも女性の名前を用いたい」という思いから、母(フク)と妻(千登)の一文字づつを用いて「千福」を命名しました。
[location]
心地よい潮風が鼻先をくすぐる呉港を離れた閑静な山の手の一等地に、株式会社三宅本店の近代的な社屋と広大な敷地が繰り広がっています。昭和初期には海軍工廠のあった呉市の酒として戦艦に積み込まれ、軍用酒として重用されながら、満州や青島など中国大陸にも酒造場を興すほど隆盛を極めました。
[people]
合理化の推進、今更こんな事とおっしゃられるかも知れませんが、これは常に現状に満足してはならない、という意味に捉えています。常に新たな事へチャレンジしてゆく精神を失ってはならない、ということなのでしょう。私達は文化も伝統も大切にしつつ、技術革新とどう共生して行くかを模索しながら進んでいます。決して何れも否定されるべきものではない。私達の哲学の一端はそこにあります。